






本日は思い切って、父方の叔母(確か六女だったかな?)一家が暫くの間、住んでいた名古屋市中村区の牧野町停留所にも程近い、昔ながらのとある界隈を密かに訪ねてみました。
確か1962年頃、豊田通商に勤めておられた三重県旧桑名郡多度町出身の商社マンと見合い結婚。それまでは、その叔母は何と名鉄百貨店に勤めていました。旧国鉄豊橋駅から名鉄5500系の一般特急で通っていたようだ。7000系(初代パノラマカー)には、なかなか当たらなかったとか。
まあ、若い頃からなかなかお洒落で、常に流行を追うような印象でしたね。うん。(微笑)
さらに、その夫は東南アジア諸国には詳しくて、幼い私自身もいろいろと教えて戴きましたわ。懐かしいです。
しかしながら、商社マンはホンマに仕事が大変。堪能な語学力をフルに発揮して、旧南ベトナムの首都だったサイゴン(現・ホーチミン市)に長いこと単身赴任していたこともありました。しかも、ベトナム戦争の真っ最中の時です。
大学は行っておらず、神田外語学院で苦学されたとか。大変に社交的で明るく、麻雀も得意でした。
この近鉄名古屋線・米野駅にも近い、この古い界隈には1962年から1968年頃まで住んでおり、夫の姉の家を間借りしていたようだ。うん。
その後は東京へ転勤。叔母やその子ども2人も一緒に名古屋を離れ、埼玉県南部に住んでいました。
しかしながら長年の苦労やストレスが祟ったのか、1988年に58歳の若さで他界。死因は白血病だったとか。あれだけファイトがあり仕事も出来て食通、それに元気一杯、博学だったのに…………。
まさに日本の高度経済成長時代を支えたようなビジネスマン、企業戦士の一人でしたわ。うん。
香港、マカオ、マレーシア等のことも、いろいろ教えて戴き、楽しかったね。うん。
当の叔母が結構、派手派手しい生活ぶりだったのも、夫の影響かな? でもその夫は、本当は贅沢を嫌い、むしろ堅実な性格とは聞いていたが。うん。
叔母も1999年秋には59歳の若さで急逝しています。
また、名古屋にいた時に同居していた夫の姉も1975年頃に、近くにあった銭湯で入浴中に倒れ、手当ての甲斐なく他界。享年は不明だが、どうも脳内出血の発作を起こしたらしい。気さくで優しく、明るいおばさんでした。
そう言えば、当時は純日本風的な木造家屋の瀟洒な銭湯がありましたが、ここで倒れたのかな? あの東区は旧長塀町五丁目バス停付近の通り沿いにあった某銭湯のようなタイプで、牛乳石鹸のロゴ入りの青い“ゆ”暖簾が掛かっていたなぁ………。(涙……)勿論、今は跡形もなし。あの今の鳴海温泉とは全くタイプが違いますね。うん。
さて、その姉の夫は若くして他界されたようで、大きな仏壇には作家の夏目漱石にも何処となく似たような美男子の遺影が………。
私自身も幼い頃は、その家に何度も父方の祖父と遊びに訪れたものでした。ホンマにいろいろとお世話になりました。ここに改めて、当時の皆さんに合掌と献杯。
……………あれから約57年か。当時の叔母夫婦が住んでいた2階建て木造長屋は跡形もなし。また周囲の家々も再開発の煽りを受けてか、広い公園になったり、あるいは民家も近代的な鉄筋造りばつかり。
ごく僅かに、よく似ている古い木造家屋が残されているだけでしたね。それを見て、楽しかった当時を偲ぶしかありません。叔母も旅立って久しいから。多度町の山奥の墓地で仲良く眠っているようだ。
叔母夫婦が名古屋に住んでいた頃は、近鉄の普通列車で米野駅にて下車して、徒歩で訪ねたものでした。
………………まだ近鉄名古屋駅ホームも改装前で3番線までしかなく、かつての狭軌時代に名鉄名古屋本線と相互乗り入れしていた面影も所々に残っていましたね。
電車のカラーも名鉄AL車に準じた深緑(モ6301形)か、ピンクに細い青帯入りのツートンカラー(1600系やモ6440形)だったと思います。
当時の近鉄電車の菱形パンタグラフは、WN駆動の1600系こそ名鉄SR車や京浜急行電鉄、阪急のものに準じたものでしたが、吊り掛け駆動の方は些か粗末なもので、摺り板は1本しかなかったような。あれで、よく車内電源が確保出来たものだわ。(苦笑) 名鉄でも、大昔の吊り掛け駆動車は同様だったが………。
………………ああ、昭和はさらに遠くなりにけり………。